みぞグミBLOG

描いた漫画/読んだものについての感想/日記を置いています。

早口でしゃべってしまいます

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読んだ。
なぜだか何か言わないと気が済まないような気持ちになってしまったので結論も見えないのに思わずブログの記事作成ボタンを押してしまった。
数分後には余計なことを言わなきゃよかったと後悔するかもしれない。

 

たとえば、TVアニメシリーズ『鬼滅の刃』の第1話。主人公の炭治郎は、雪の中を走りながら「息が苦しい、凍てついた空気で肺が痛い」と言い、雪深い中で崖から落下すると「助かった、雪で」と言う。しかし、そのセリフは必要だろうか。丁寧に作画されたアニメーション表現と声優の息遣いの芝居によって、そんな状況は説明されなくても、わかる。

アニメでこのシーンを初めて観た時は度肝を抜かれた。
見りゃ分かることを何もかも口からベラベラしゃべり続ける炭治郎の姿は何かの間違いかと思ったし、思わずアニメを観ている自分の正気を疑ってしまったほどだ。もうそれが気になって気になってストーリどころではなかった。
文中に、映像でない漫画表現の場合は絵で伝えきれない情報をモノローグで補うのもアリだという趣旨のことが書かれているけれど、崖から落下したが崖の下の積雪によって助けられたことを絵で説明するのなんてそう難しいことではないと思う。
私は、漫画とは言葉で説明せずどれだけ絵で魅せられるかを試行錯誤するものだと思っているから(作風にもよる)、過去の自分の作品は説明台詞が多かったり、人物の心情をモノローグにしてしまったりしているところが未熟だ、と思っている。
なんだか私の気づかぬうちに時代は大きく変わっているのかもしれない。

 

初めて映像作品を1.5倍速で観る人がいると聞いた時は驚いたし、膝から崩れ落ちそうになった。
もし自分が制作した映像作品を、自分が出演した映像作品をそんな風にして観られたら…と勝手に想像したらつらすぎて私の膝が急に仕事を辞めてしまった。
あと、単なる自分の好みでしかないけれど、私は作り手が見せたいと思った形でしか作品を鑑賞したくない。
だからテレビサイズに編集された映画などは絶対に観たくない。それならお金を払って本来の尺のものを観る。
だから自ら1.5倍速で観ることを選ぶなんて信じられないのだ。

 

映像作品はどんどん新たに作られていく。
私は、ここ数年でアニメやドラマを観ている途中に面白くない、または観ているとストレスが溜まると感じたら観るのをやめてもいいんだと思えるようになった。
以前はそれができなかった。最後まで観て一つの作品として受け取れるのだから、最後まで観るのが礼儀だし、最後まで観て評価しなくてはいけないと思っていた。
しかし、10年前の自分が挫折した作品をいま改めて観て「なぜこれを途中で挫折してしまったのか…?」と後悔することはあっても、ここ数年で自分が挫折した作品は概ね自分にとっては観る価値がない、もしくは今観る時期として相応でないと思えるものばかりだ。やめなきゃよかったと思ったことは今のところない。
つまり、やっと私の審美眼は信頼できるレベルになったのだと思う。
もちろんそれは、私による私のための審美眼であるのだけれど。
あと、長年生きたおかげで、心を痛めずにゴミを作れる人間がいることを知れたというのもあると思う。

どんなに物事の選択肢が増えても、取捨選択は結局自らがするしかない。
私も取捨選択や優先順位をつける作業はものすごく苦手なことなのだけれど、多くを取ろうとすれば全てが死ぬことをやっと認められるようになってきた。
「それでもなにも捨てたくない」と思う気持ちは時に価値があると思うけれど、その場合には自覚が必要だと思う。
たとえば映像作品に限っていうと、観たい作品を全部観ることが現実的に不可能なことは単純計算して分かるのだから、「何も捨てたくないと思っているけれど実際的には優先順位をつけ、最終的に何かを捨てることになることは明らかなのにそれについて考えることを放棄し今目の前にあるもの以外を保留にしている自分」の自覚。
自分が何をやれて何をやれないかが認められないと、そこから世界は狂い始めていくと思う。

ここまで早口で一気にしゃべってしまったけれど、きれいにまとめられない。
つまり本質を見失うな。本質を突こうとしろ。と自分に言い続けたいのだと思う。
そういうことが大切なことだと思っています、ってことなのだと思う。

私はいつもこういうことばかり早口でしゃべってしまう。
日常的にこういう話ばかり聞かされている私の身の周りの人たちは、このブログを読んで「ついにネットでもやりはじめた」と思っていることでしょう。
恥ずかしいのであんまりやりたくはない。